ここの記事でも時々「ビッケ印のなんとかー」とか言ってますが、無論そう言ってみたところでアイテムの効果が変わっているわけはないのです。「びっけじるしのふんじん」が普通の粉塵の1割増しの効果がありますよー、なんてことが(あったら良いのですが)あるわきゃないですな。
しかし、そうであってもビッケは毎週毎週「週末リカバー」で素材を調達するわけです。これが見上げたケチンボ…ということなのかどうか。今回はそういうお話です。
ちなみにこの記事は本サイトのイメージギャラリー「医としてのハンター」からのスピンアウト的なものです。まだの方は、まずそちらをご覧ください。
さて、ビッケの様に薬草は栽培する、アオキノコは採ってくる、竜の爪牙もクエストで調達する不死虫も捕まえる…なんてことをやってるのは「ハンターかくあるべし」的な教条によるのかというとそうでもありません。実際のところビッケの中の人は朝と夕で言ってることが反転してんじゃん、というくらいイーカゲンなとこがありますので、「どっちであるべきか」の問いには大概「どっちでもいーんじゃん?」というテイタラクな人なのです(笑)。
そーいうニンゲンが何でコツコツ集会所下位簡単を何回も連戦して爪牙集めたりしてんのかというのは、われながら不思議なとこですな。
これが「ケチンボ」だからとなるのかというと、中の人は…確かに経済活動が不活性な(笑)タイプの人ですが…むやみと「出費を抑える」ことで節約と考えるかというとそうでもない。単位時間あたりで出入の「効率」が良いのに決まってるじゃん、と考える普通のタイプです。
つまり爪牙不死虫それぞれ×50購入したとすると総額33000ゼニーくらい。一見大変な金額ですが、実際にはハイパー素材ツアー15分でも一撃で稼げますし、G3ラストのシェンなんか火事場ヘビィで15分ですから(あれ難易度設定合ってます?)、弾代さっ引いても十分1回で稼げるわけです。
これが集会所下位簡単大連戦でウギャーとかやったら何時間もかかるわけでして、どう見ても損といったら損です。実は、今までなんで自分がそうやるのかという点を「狩人の動機」という曖昧な感覚で捉えてきてまして、実際「その内実」がなんであるか今ひとつ明瞭ではなかったのですが(笑)、これが最近少しその内実が言葉になってきた、というのが「その大損をやる理由」になるのです。
狩人の動機
これまでは「狩人の動機」というのをゲームにゲーマーとして取り組むのか、ハンターとしてモンハンの世界の中にある者として取り組むのかの差だ、という様に漠然と考えていたのでした。
落とし穴ひとつとっても「使うのが良い」「使わないのが良い」という二項対立的な判断ではなくて、その場での「狩人の動機」に従って、使う・使わないを組み込んで目前の「狩りを形成」したら良い、としていたわけです。
これはこれで良いのでして、その行為がハメなのかガチなのかというのも実際には線引きが難しいものですし、「ハメというガチ」という風に考えられるケースだってあります。そこでそれを行う理由を自分のハンターとしての動機(ゲーマーとしての動機ではなく)、という仕方で説明するなら、それはモンハンの世界内でのスタイルの一法として筋が通るだろう、ということですね。
要するに自らのスタイルに自覚的で、目前のクエストに何を求めるかがわかってんなら、それで良い、ということです。
さて、ここで思ったのは、この「狩りのスタイル」というのも表裏があるよね、ということでした。表のスタイルというのは、すなわちそのスタイルがゲームシステムの中において表現可能であるというものにしましょう。要するにその取り組み方が具体的なパフォーマンスとして直接結果に差を出す、ということです。簡単に言ったら知識を含めたリアルスキルのことですね。
で、裏ですが、これは逆に「そうしたからといってゲームプレイの結果に直接差が出るわけではない」部分です。最も代表的なのが特定武器に対する思い入れですね。その武器の来歴、自キャラがそれを手にするに至ったストーリー、使い続ける理由、その表明。そのような取り組みの持つ魅力というのは、それだけでひとつのモンハンシリーズをやり抜けてしまうほど強力なものですが、その思い入れ自体が「直接」パフォーマンスを左右するというわけではありません。愛したからといって攻撃力が1割上がったりする武器というのはない(笑)。
しかし、その思い入れこそが余人の追随を許さない工夫を凝らさせ、リアルスキル(表のスタイル)を向上させ、他のどのハンターが「それ」を使っても同じパフォーマンスは出せない、というような「具体的な」差を生み出してしまうことは、すでに多くのハンターが証明してみせたところです。
斯様にこの「表裏」は入り組み合って、魅力的な「狩りのスタイル」を醸成してゆくのですが、この「裏」の動機というのは何も武器に持たせるだけでおしまいじゃないなー、ということを最近思います。
それは、今まで「ビッケ印の…」と言ってきた、「マイアイテム」達に他ならなかったわけですが。
ビッケ印の粉塵は効くか
「フィールドノート」や「医としてのハンター」で述べた様に、モンハンにはそのゲーム上では語られないバックグラウンドが広大にあります。「狩りに行ってないビッケ」がなにやってんのか。あるいはそれは「狩りに行ってるビッケ」よりも大きい。
「生命の粉塵」が竜の爪牙・不死虫の調合によって作られる、という点にしても、その各素材の質・採れる場所による差・使う相手(仲間のハンター)の体質差…更にはその調合レシピの分量を変えてみたりなんだり…。
もっとゲームアイテムということを度外視したところで考えるなら、密林の湿潤な気候と砂漠の乾いた気候ではケガや病気の質も違うし、相手のモンスターごとに受けるケガの内容も違うし(そのモンスターの保有する病原菌の差とか)、ということで、「実際の医としてのハンター」があの世界で凝らさなければいけない工夫というのはそれはそれは大変なものである、と思われます。
が、そんなことをいくら考えてみたところでゲーム内でやることはいくつかの回復系アイテムからひとつ選択してボタンを押すだけのことですね。無論その効力は誰が使おうと同じです。
では、その「狩りに行ってないビッケ」のしているであろう工夫というのはゲーム内で体験・表現できないのか。当然できません。このゲームにはそういうシステムは実装されていない。
んが、中の人に言わせれば「システムが実装していない」なんてことは「些細な問題」です(笑)。代替行為。それによって、ゲーム内に無い部分は補って行けます。
思えば、ずいぶん前からこの「代替行為」に関しては考えていました。あるクエストのモンスターの移動をプロットする。出来上がっちゃったら、もう次回からは自マキはおろかペイントすら要らない。
しかし、これはおかしい。今回4から7へ移動しました、だからといって次回もそうで「あるわけがない」、のがハンターとして中にあるというならば取るべき態度でしょう。プロットの確定なんかは、むしろ「もっともらしさ」を損なう行為である、と言えます。でも、実際何回も観察を重ねてプロットが確定できると楽しい。これはゲーマーとしてルーチンを解いた楽しさ、というのではなく、ハンターとして、楽しい。この矛盾は一体なんなのか。
中の人はこれを「代替行為」として位置づけてきたのです。移動プロットが確定「できちゃう」のはおかしいが、それはハンターがそのモンスターをよくよく観察して発見してゆく個体特性、というような「ゲームが実装していない」ハンターのあり方の代替行為である、と。
モンスターだって、実際のあの世界では個体ごとに習性や癖があり、ハンターはその観察眼(スキルじゃないですよ)で、それを見極めて行くことで、実際の狩りを優位に進めることとなるのでしょうが、今のゲームシステムにはそこまでのリアリティは「実装されて」いないわけです。
立ち回りの確立や、怒り回数のカウントなんかもそれそのものはプログラムルーチンの「攻略」に他ならないのですが、そのあたりも「ゲーム内で表現できないハンターの観察能力」の代替である、とすることでおおむね了解できるのでした。
この代替行為をより広く敷衍してみると、実は粉塵作成のための手間や何やかやも、その中にすっぽり収まることがわかります。医としてのハンター、医としてのビッケがゲーム内で表現できない工夫。その工夫を代替して実感するための行為が、下位簡単を繰り返して集める爪牙であり、沼地をかけずり回って集めるアオキノコであり、1時間かけて10個しか増えてないアイテム欄の不死虫を見てつくため息(笑)だったわけです。
こうした代替行為の反映が「ビッケ印の粉塵」であり「ビッケ印の回復薬」です。最初に「そんな大損」と書きましたが、その大損な手間がただの粉塵を「ビッケ印の粉塵」にしていたのです。
これは効きます(笑)。その「思い入れ」が粉塵・広域を使って行く際のリアルスキルに及ぼす影響は相当でかいです。あぶく銭は簡単に使っちゃえるけど、苦労した稼ぎは大事に使うのと一緒です(笑)。
あ、広域回復というのも、そのクエスト・相手のモンスター・相手のハンターの動向次第で、ちゃんとしたタイミング取りができるかどうかで、最終的な効果は大きく違ってくるのですよ。漫然と使ってるのとでは平気で数割単位で変わってきます。
さて、そんなこんなで「ビッケ印」は伊達じゃないよ、というお話でした。思い返せば、ガンナーにおける弾の問題に関しては、かなり早い時期にこの感覚がありました。当時はだから、ガンナーにおいてフィールド上のアイテムを縦横に駆使した狩りが展開できる、ということを書いてみたりもしてましたね。
しばらく前にアタッカーハーフとしての片手剣士、というスタイルを工夫して近接剣士でもそれは可能である、というという見解に至っていましたが、ここしばらくでより詳細にその内実に迫ることができた、という感じでしょうか。
そして、この感覚は更に「ゲームを外れた」ハンターとしての取り組みを予感させます。代替行為というゲートに触れて、ゲーム内に無いものを「投影」して行く回路。いずれこの点は別にまとめることになるでしょうが、あるいはそれはひとりのゲーマーがひとつのゲームに対してなし得る「最後の一手です」。
ゲームの「底が抜ける」瞬間。そこでは、それが書かれることになると思います。
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