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HUNTER's "B"LOG
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つづきです。

仮想的に拡大される自己・仮想的に縮小される世界
仮想的に拡大される自己像の暴走
デジタル・ナルシス


仮想的に拡大される自己・仮想的に縮小される世界

八〇年代の日本ではすべてが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続くかぎりは生きやすいものだった。

------------------------------------東 浩紀 『動物化するポストモダン』
 

ヒトの行動の根本には先に述べた「予測の通る」状況を好んで選択してゆく傾向、というものがあります。傾向どころかそれが原動力であると言っても差し支えない。

自分の「やり方」・価値観が広く受け入れられるものであるほど、不測は起き難くなります。「自分の考え」を訴え、それを認めてもらいたいとするのも、「自分」を抑え、より広域に流通している価値観を拝借するのも、一見すると正反対の二面ですが、その求めているところは同じ、というわけです。

これは要するに「個」と「世界」の対比において、その差がなくなればなくなるほど良好となりますので、その方向に2つのアプローチがあることがわかります。

ひとつは個を拡大し、世界との差を縮めようとするアプローチ。もうひとつは「世界を縮小し」個との差を縮めようとするアプローチ。古典的な「若者」と「オトナ」の対置がこれを良く表していますね。「俺が、俺が」と自己を拡大して世界への領土を広げようとするのが若者、「所詮世の中こんなもの…」と世界を縮小して相対的に自己の領土を確保しようとするのがオトナ。この転換点を自覚した時おっちゃんは「トシ食ったなー」とぼやくわけです(笑)。

さて、この「世界」というのは当然のごとく地球上のあらゆる事象の総体「なんかではありません」。そんなものが頭に入るわけがない。この「世界」とは、その「個」が所属する共同体が共有する「世界像」に他なりません。お好みならそれを「共同幻想」と呼んでも良い。

この共有された「世界像」が機能していた時代を「近代(モダン)」。それが空中分解をした後の世界を「ポストモダン」と区分します。われわれは個を拡張しようにも何に対して拡張したら良いかわからず、世界を縮小しようにもその「世界」が胡乱になってしまったこのポストモダンを生きています。
ここ30年ばかりの時代の流れとは、実に近代の提供していた「世界像」がひび割れていく時代でありました。

そして、その「ひび割れ」にそって根をはわしていったのがデジタルゲームであり、デジタルネットワークだったのです。

それらが提供していったのは、まさに「個を拡張させていける仮想世界」でした。デジタルゲームにおいて個は「数十時間で世界を救えるほど」に拡張されます。その世界は「数十時間で個に救われてしまうほど」に縮小されます。
ネットワークにおいて「個」はダイレクトに「世界」を糾弾することができ、また擁護することができるほどに拡大され、「世界」は「個」に糾弾され、擁護されてしまうほどに縮小されます。

これは「個」と「世界」の仲介としての「共同体社会」のスキップを意味します。ヴァーチャルな世界にヴァーチャルな個を投入するに際して、リアルの身体をよって集める共同体の存在、本来個の活動を世界像へ接続してゆくための中間レイヤーであった共同体社会の存在はまったく必要ない。

これが、ゲームバッシングやネットバッシングが起こる潜在的かつ根本的な理由です。脳がおかしくなるから、精神を損なうから、そんなことはすべて後づけの理由です。やりすぎておかしくならないものなんか無い。「ゲーム脳」の示す脳波が問題だというならば、座禅する坊主の脳波だって同じくらい問題です(実際将棋の羽生永世名人の長考中の脳波は「ゲーム脳」のそれとほぼ同じだったそうです)。

「共有されるべき世界像が崩壊してゆく」ことへの不安。その不安を象徴する位置にデジタルゲームやネットワークがあるのです。だからこれらに対してはその不安が存在する限り、個々の観測にいくら反論しても、すぐに新しい「アラ探し」が始まるのです。

そろそろ誤解を招きそうなので釘を刺しますが、ここでこれから「ニュータイプvsオールドタイプ」論争をやらかそうというわけではありません。むしろ、ここで強調したいことは「世間(日本特有の共同体社会の形態です)」がデジタルゲーム・ネットワークをバッシングすることには実に真っ当な理由があるのだ、ということです(その個々が内実を把握しているかどうかはともかく)。

従来の生活基盤の崩壊を象徴する事象への反発に対して「それは偏見である」「無知蒙昧である」「単なる保守である」と反論しても「まるで足りません」。

では何なら足りるのか。少なくともきらびやかな外装をひけらかすことでは足りないでしょう(これが「IT」がいつも失敗する理由です)。そのピカピカの衣装に下に流されている幾多の血から目を逸らして進める道ではない。

そう、そこにはやはりすでに多くの血が流されているのです。

 



仮想的に拡大する自己像の暴走

「今期ははずれかと思ったけどカジキマグロ級の大物が2つも!!
 これであと半年は戦えるでござるよ!!」
「戦うって何と?」
「…現実と」

------------------------------------小島あじこ 『となりの801ちゃん(2)』


「ゲームを語る」上において、この辺りは最も重要なキモですので、おさらいします(801ちゃんをじゃないですよ?)。

おおむねヒトの社会は

A:世界像--B:共同体--C:個(一族)

の連絡で成り立ってきていまして、世界像は個(一族)がどのような方向に己を振り向けるかの指針として成立していました。指針というのは「どのように生きて、どのように死んだら良き人生だったと言える、言ってもらえるのか」というような直裁な意味です。歴史的には

A:掟(原始宗教)--B:村落共同体--C:個(一族)
A:広域宗教--B:地域共同体--C:個(一族)
A:近代国家--B:近代社会--C:個

というような変遷があったといえましょう(乱暴ですが)。(一族)とあるのは近代以前にあってはアイデンティティの在処が個の内部よりも自身の一族(親族)よりにあることが多いからですね。

これが近代(モダン)の終焉とともに広域(超越)を象徴する幻想が解体され、寄る辺の無いポストモダンに突入し、われわれは始終五里霧中というわけです(「神は死んだ!」とニーチェが叫んだのは早くも19世紀末のことです)。

この寄る辺の無い五里霧中が個にどんな影響を及ぼすのかは、脳の基本的な役割がなんだったかを思い出しましょう。「予測が立たない」この状況は脳に大変なストレスを与えるのでした。

そして、そのストレスに対して緩衝となる、あるいは仮想的に指標を代替する装置としてわれわれの生活に根を張ってきたのがデジタルゲームであり、ネットワークであったのです。それを結果論と見るかどうか、ここでは詳述はしませんが、「パーソナルコンピュータ」がいかなる出自のものであるのかを見直すことをお勧めします。それはまさに、「モダン」を解体することを目的とした「切り札」としてヒッピームーヴメントの中から登場してきたのです。

さて、このような「指標無きリアル」のもとに「世界に直結できるヴァーチャル」が挿入されて何が起こったか。それを見てゆくには「仮想的に拡大される自己像」がなんであるかをより詳しく検討する必要があります。

仮想的に拡大される自己像(以下、仮想的な自己)の由来は件の脳の「予測」機能にあります。「よりうまく行ったイメージ(予測)」がその正体です。つまり、この仮想的な自己は誰にでも、というよりヒト以外にもあるものだと考えられます。

高度に複雑化した人間社会においても、この存在なしに人が立ち居振る舞えるのかというと難しい。結論だけいうならば仮想的な自己と身体に直結した自己の差がなくなる状態というのは、それぞれの分野の達人クラスにおいてのみ、しかもかなり一時的です(いわゆる「無念無想」という境地がそれです)。

これを上に書いてきた個と世界の連絡の仕組みにおいて言うならば、仮想的な自己を拡大してゆく方向の指示となるのが、その共同体の提供する世界像であった、ということになります。そして、この連絡の中間に身体に直接接する共同体というレイヤーが介入することにより、リアルな身体に由来する自己からフィードバックがかかり、通常は仮想的な自己と身体由来の自己の間の差は一定以上広がらない、という仕組みになっていたのです。

用語がわかりにくければ、仮想的な自己→夢想の中で何でも上手いことやっちゃう自分のイメージ。身体的な自己→リアルにあってあれこれ失敗続きの自分のイメージ。とぶっちゃけてご想像していただいても結構です。

しかし、ヴァーチャルがこの重しを外しました。

個と世界が直結するイメージにおいては、身体的自己像は邪魔になるのです。拡張される自己が無制限でなければ、世界へ個がとどくイメージは生み出されない。ここにおいて「身体的自己からのフィードバックを受け付けない状態へ拡張された仮想的な自己」が発生します。

誤解される方がいるといけないので先にお断りしておきますが、これは「現実と幻想の境の見当を失う」という話ではありません。

そもそも現実側には世界に個が直結する回路は無いのです。

対比できる対象が無いのに境の見当も蜂の頭もありません。そのようなヴァーチャルへの接続は好むと好まざるとにかかわらず、身体的自己からのフィードバックによる規制のかからない仮想的な自己を生むのです。そこにはそもそも見極められるような境界は「ありません」。

すでに、ヴァーチャルに一定期間コミットしたすべての人に関して、(一旦リアルと「切れた」際に)次の接続を模索する方向として、リアルからのフィードバックから解き放たれた仮想的な自己の指針が存在してしまっているのです。

つまり、デジタルゲームやネットワークの提供するヴァーチャルに過度にコミットすることの問題とは、そのヴァーチャルと現実との境界が曖昧となる「ことではなく」、リアルとの別を自覚してなおヴァーチャルの提供する世界像へ向けて拡張される自己像を選択してしまうことにあるのです。言い換えるなら、その別を自覚してなおリアルからのフィードバックを受ける自己像を選択しないことにあるのです。

余談ですが、これが世間で「境界喪失」が問題として繰り返し取り上げられる理由です。境界が曖昧になったのではないのならば、リアルが意図的に選択されなかったことになる。そこを問題にするならば、議論はここに書かれた通り「モダンの崩壊」にまで至ったものにしなければならない。なぜリアルが見限られるのかを語らなければならない。これは少々重い、ということでお手軽な「境界喪失」のイメージが引っ張り出されるのですね。

さらに余談ですが(笑)、マスコミの基本スタンスというのは、センセーショナルの提供を視聴者に「負担をかけない様に」行う、というものです。つまり、「境界損失」という万が一にくらいしか存在しない「原因」を敷衍することの目的は、「自分はそうではない」という人ごと視点でそれを見、議論できる場の提供です。万人が人ごとではない、となってしまう視座(ポストモダン)を胡乱にするために、そう思わないですむ理由が提供されるのですね。

話を戻しますと、このリアルからのフィードバックを受ける自己像をを選択しないことが、仮想的に拡大する自己像の暴走の始まりです。なぜそれが暴走なのか。なぜそれが問題なのか。それは、リアルな身体からのフィードバックを受けずに拡張された自己像にはリアル上での受け皿が無いからです。

この二つの自己像間のギャップが、ひとつの精神を成立させる範囲を超えて乖離してしまったら、もはや現実の中でとるべき手段は二つしか無い。リアルを遮断するか、ギャップをリセットするかのどちらかです。

これが、引きこもり(遮断)に、自殺・無差別殺人(リセット)に対してその原因として常にデジタルゲームやネットワークが引き合いに出される理由です。そのゲーム内容やネット上のやり取りなどの「原因」は根本的には二次的な問題に過ぎません。

先ほどのマスコミ云々とからみますが、そのように執拗に「原因」や、当該者の「生い立ち」が探られるのは、単なる「不安の煽動」ではない。むしろ、視聴者に「自分はそうではない」という感想を抱かせるために行われるのです。事件後即座に掲示板とかに「バカなやつ」発言が書き込まれることを思い出しましょう。

またこれは、一足飛びに極端な結果を伴って現れることでは無い、という点も良くわきまえるべきです。完全な遮断、完全なリセットという極端な状況に至るまでに、通常(と思われる)社会生活の中で、仮想的自己を守るための「緩やかな遮断」「緩やかなリセット」はもはや日常的に行われています。むしろアウトブレイクする前のこの「緩やかな遮断」「緩やかなリセット」こそが広域を支配する「現代の問題」を形成しているものでしょう。異性とつきあわない、結婚しない、すぐ職を変える、そもそも働かない…云々と日々議論される「現代の問題」のほとんどが、暴走した仮想的な自己を守るための「緩やかな遮断」「緩やかなリセット」という視点で同一面に立つものであることは自明である様に思われます。

確かに二つの自己像間の過度のギャップの発生と仮想的な自己の暴走の原因となるのはデジタルゲーム・ネットワークに限ったわけではない。その大局における原因がモダンの崩壊とポストモダンの寄る辺の無さによるならば、それを契機に発生したあらゆるムーブメントにその原因は求められるでしょう。

が、その象徴にデジタルゲーム・ネットワークが来ることが「いわれの無いこと」でないことはここまでに述べた通りです。唯一の原因でないにせよ、それを発生させ助長させるという点において「最強の装置」であることは間違い無い。

では、われわれはそれにどのように対峙したら良いのか。「そんなもの」は無かった方が良かったのか。

前項の始めに書いたことを思い出しましょう。そこに大きな「負」のムーブメントがあるならば、それはその絶対値をもった強度故のことなのだ、という話です。われわれはその「負」を曖昧にして、「そういう面もあるかもしれないけどもっと良いこともあるんだよ」とやらかすべきではないのです。

その「負」の有り様をしかと見据えること、それを抱えてその絶対値としての強度へ手を伸ばすこと。

「ヴァーチャル」とは、単なる幻想、単なる空想、単なる虚構を表す語であはありません。ヴァーチャルとは本来「潜在的可能性」を表す語です。

解き放たれたパンドラの箱。あらゆる害悪を解き放ったその箱の底に最後に残っていたのは何か。



デジタル・ナルシス

端的に言おう。機械とは、「人間の形式化への希求を具現化したもの」なのである。完璧な<形式>は地上に存在しない。我々は<機械>によってそこへ向かうのだ。

---------------------------------------西垣 通 『デジタル・ナルシス』

常識に反して、ナルシスは自分の姿に恋したのではない。「水面の自分の姿の背後に、ナルシスは彼が模倣する他者の表情を見ているのだ。ナルシスは他者に焦がれたからこそ水の底へ飛び込んだのである」という、ジャン=ピエール・デュピュイの言葉はズバリ正鵠を射抜いている(デュムシェル&デュピュイ『物の地獄』織田・富永訳、法大出版局)。

けれどもナルシシズムによって模倣の地獄から脱出することは、そうたやすいわけではない。普通の人間では鏡や水面では弱々しすぎる。何らかの強力な<仕掛け>がなければ、たちまち挫折してしまう。
そしてこの<仕掛け>こそが<情報機械>に他ならないのだ。

---------------------------------------西垣 通 『デジタル・ナルシス』


前項の暴走する仮想的な自己の問題は、詰まるところそれに手綱をつけることでしか解決できない。と、いうよりもあまりにもその発生に無頓着に状況のみを拡大した結果がこの有様、ということでもあるのです。

無論内的な自己像がリアルな身体からのフィードバックをかわして暴走する、などという現象が広域に発生する事態は人類史上例がなかったことなので、この点後追いにならざるを得ないのは致し方がない、とも思えますが。でも、上にあげた西垣の『デジタル・ナルシス』が書き継がれたのが1988年から1991年であったことを思えば、もう十分後手後手であるといわざるを得ないでしょう。

さて、ではリアルからのフィードバックを身体に依拠する自己像から受け取らない危うい仮想的な自己を抱えたわれわれ「デジタル・ナルシス」達はどこへ向かうのか。

残念ながらそれには未だ答えはありません。上に述べた通り、それは今までの人類の歴史を振り返っても準拠すべき判例を得られない現象です。が、ヒントはあります。

かつての広域宗教においては、地上に存在するあらゆる「物」は、「物そのもの」であると同時に教義上の意味と接続された存在でもあるという二重存在でした。

すなわち、その広域宗教の有効範囲において、地上はそれそのものであるレイヤーと教義において再定義された意味論的なレイヤーが重複していた、ということです。あるいは意味論的なレイヤーがオーバーラップしていた、と表現しても良いでしょう。

これは、あらゆる識別可能な存在がすべてネット上にアドレスを持つ様になるであろう現在のネット状況と非常に良く似ています。現代とはネットワールドがリアルワールドにオーバーラップしている状態である、と言って良いでしょう。

このイメージが突破口です。

おそらくこの先われわれは、この二つのレイヤーを生きていくために、二つの人格を持つことになるはずです。これがあらかじめ自覚的になされることが最大の重要事となるでしょう。

先に述べた仮想的な自己像の暴走と「そちらを選択してしまうこと」がリアルにおいて壊滅的なダメージとして身に降り掛かってしまう原因の多くは、その状況に無自覚的に追い込まれた挙げ句の選択であることに見えます。これはまた、双方へのアクセスが「ひとつの人格」によってなされている、という前提に無理があるのではないか、ということです。

そんなバカな、人格はひとつが当たり前だ、とお思いかもしれませんが、これは多分に近代(モダン)の遺産です。近代以前はそもそも人格の所在ということがあまりクローズアップされませんでした。個があまり表立ってはいなかった、ということです。個の帰属する集団(一族)内でのポジションでそれはほぼ決定していたのですね。

そして、近代が提供した「ひとつの世界」という世界像に対応すべく発生したのが「ひとつの人格」であるのでしょう。これは、その世界像の崩壊(モダンの崩壊)により必然性は薄まりつつあります。さらに、その後の今に続くポストモダンにおいては世界は相対的かつ多義的、つまりは多層的です。

それに対応する人格がまた、多義的・多層的になるであろうことは想像に難くありません。

「リアルから逃げるため」に、「ひとつの人格」が一方(身体的な自己)からもう一方(仮想的な自己)へ移行する、という選択でなく、あらかじめ二層を生きるための複数の人格の使い分けに自覚的であるならば、状況は相当に変わってくるはずです。

あわれ水面に飛び込んでしまったナルシスは、それはそれで幸せだったのかもしれません。しかし、そう簡単に溺れてしまうわけにはいかないわれわれは、そこに映っている自己像が「デジタル・ナルシス」というもう一方の自己人格であることに自覚的でなければなりません。多分今できることはそれだけです。そして、そこから始まっていくのでしょう。

おそらく、この一点において前項に述べた「負」の要素はその絶対値を反転させ得ます。そしてそれがポストモダンの寄る辺なき五里霧中にあってパンドラの箱に最後に残っていた「希望」となるかもしれません。

今ここで、それを…そうですね「セカンド」とでも呼びましょうか。二つ目のセルフ、セカンドセルフ、ということですね。順番から言ってデジタルゲーム・ネットワークにおいて仮想的な自己が発生し得るのは、形式操作が十分に可能になるとされる年齢(10才前後)以降でしょうから、生まれたときから発生を続ける身体由来の自己(ファーストセルフ、となるでしょうか)に先んじる、ということは一般的にはないでしょうね。

このセカンドが「デジタル・ナルシス」であり、それに自覚的である、ということで反転してゆく絶対値。そう仮定するのならば、われわれが次に目論むべきはその「セカンドのリテラシー」だ、ということになるでしょう(リテラシーとは「読み・書き」を意味します)。

さて、この辺からようやく「私」が登場します(笑)。何となればここまで書かれてきたことは「世間でそのように考えられている」ことの紹介、というような物だったのですが、それはここまでです。ここから先、という物がまとまって描かれたケースというのはまだ見ないですね。

ということで、ここからは私の考え、という物が書かれていきます。それはこの「セカンド」のリテラシーのお話。

私はそれに「セルフ・デザイン」という名前を与えました。

次頁「セルフ・デザイン」へ続く

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secret
  • 哲学は大の苦手なのですが‥‥
りむ 2008/08/11(Mon)06:31:36 編集
空を飛ぶ存在は、いつか必ず地に墜ちる。
「力」そのものに善悪は存在しない。
「奇蹟」は自らの手で起こしてこそ、その価値がある。

上記の3つは私が信条とする教訓なのですが、たまたま合致したので興味があって拝見させていただきました^^

ゲーム蔑視の報道を鵜呑みにしている方は、scalarとvectorをはき違えている方だと感じます。

効果が強い薬ほど、その副作用も強い。
毒にならないものは、薬にもならない。(つまりは、無力な存在)
効果量自体が大きいものは、負の部分が増大しないように上手く方向性を制御さえすれば、素晴らしい効果を発揮してくれます。

「ゲーム」という存在自体は「善悪(±)」の概念が存在しないscalarであって、「どういう風にゲームをプレイするか?」という事が善悪の要素をもっているvectorだと思います。

だからこそ、そのプレイスタイルには情熱と誇りをもって、自分が自信を持てる道を進んでいきたいものだと考えています。
  • Re:哲学は大の苦手なのですが‥‥
HUNTER's LOG 2008/08/11 13:00
うほっ。ひっそりやってたつもりだったんですが…ようこそいらっしゃいました。
はじめまして。

もー青天の霹靂のショックでラームさんは寝込んじゃいそうな勢いだしどーしたもんかと思いましたよ。天天の方もですし。
しかし、実際のところそういう局面というのはあるんだ、という感想がこの一文の書かれた「原因」です(まだ途中ですが)。

「君、来月からちょっと上海支局に飛んでくれんか」とか言われちゃうかもしれないわけですし、病気で入院しなきゃいけないとかもあるかもしれない。単純に新しい彼女に「あんまやってくれるな」と言われちゃうかもしれない(笑)。

狩りが好きで好きでたまんなくてもモンハンそのものにアクセスできなくなる状況、というのは十分ありうる。

そうなったらモンハンどころじゃねーだろーで済むなら良いんですが、生憎あたしは手遅れでして(笑)、何がどうなろうが手を引く気は毛ほどもないのです。じゃあ、そうなったらどうするのか、ということで書かれたものですね。たぶんあたしはこの道にかかわった最深部へのアクセスを試みるだろう、と。無論考え抜いた上で復帰する腹積もりで(笑)。

つまりこれはモンハンそのものへのアクセスを閉ざされた「ハンター」が、その状況で何をなしうるか、ということでありました。たぶん、これをお読みになった方々が「それぞれの最深部へ」のアクセスを試みるための材料と類例はそれなりにつまったんじゃないかと思います。

そして、ここに書かれた「あたし-ゲーム」の深層が、これまでに展開してきた各文章の根底にある、と見るならば、それらもまた違った読み方が可能かもしれません。

特にプレイスタイルがモンスターハンターの何であるかに関してはかつて筆を尽くしました。よろしければ併せてご覧下さい。


『明日へ架ける橋(習作1.2)』
http://hunterslog.nomaki.jp/Pages2/HuntersLife/070915.html
http://hunterslog.nomaki.jp/Pages2/HuntersLife/070924.html

『英雄の証(前・後)』
http://hunterslog.otoshiana.com/HuntersLog/MonsterHunter/p05.html
http://hunterslog.otoshiana.com/HuntersLog/MonsterHunter/p06.html

それでは。ラームさんやシュガシュガさんはおそらく相当しつこいですから(笑)、ずーっとりむさんの復帰を待ち構えていることでしょう。

皆の笑顔がまたドンドルマの地に揃うこと。
あたしも影ながらその日の再来をお祈りしております。
  • ひとこと
たーだーいーまー調整中。
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ハンドルネームというのにいまだに不慣れなのでHUNTER's LOGのまんまです。屋号みたいなものだと思ってください。コメントなどの際は「ログさん」とかでどうぞ。
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