最終頁です。
セルフ・デザイン1
セルフ・デザイン2
ワールド・デザイン
パースペクティヴ(モンスターハンター)
※大変停滞してますこの記事ですが(笑)、ちょっと本サイト「ビッケのお話」を公開してからでないと話が進まない、という面があるので今しばらくお待ちを。あっちが序盤のひとまとまりを迎えましたら続きます(たぶん本サイトに移行して続きます)。
セルフデザイン1
「この世には---不思議なものなど何ひとつないのだよ。関口君」
---------------------------------------------京極夏彦 『鉄鼠の檻』
やや遠回りになるかもしれませんが、私が「セルフ・デザイン」というアイデアに思い至った地点から書き起こしてみましょう。
詳細に解説を加えながらいくと本になっちゃうので、おいてけぼりゴメンの高速ドライブで行きます。お暇な方は解析してください。
それは忘れもしない1993年11月のこと。なんとまあ細川さんが連立政権とってたときのことですね(歴史的過去)。
西日暮里の駅で乗り換え電車を待ってた私は、「あ、セルフ・デザインか」と思いつき、貧血起こしてホームの椅子に座り込んじゃったのでした(笑)。
時期的に見てわかる様に、これはそもそもデジタル・ネットワーク上におけるセカンドセルフに関するものではなく、そのまま自分自身ファーストセルフに関するものでした。
バックグラウンドとしてはウィトゲンシュタインに相当はまり込んでた時代でして、そこにフーコーの「セルフテクノロジー」とでも言うべきアイデアがからんで、言語ゲームとしての「リアル」に「直接」介入する、あるいはコードブレイクして行く回路の構想は可能か、ということを考えていたのです。中二病ですね(笑)。
しかも「限定的には可能」であり、それは限定的と言ってもそれなりに目の前の現実に対して身体言語−日常言語−メタ言語の広帯域において実行力を持つものになり得る、と当時の私はこれに目算をつけました。キケン思想ですね(笑)。
具体的な問題としては、眼前に起こる(身体的な眼前)現象に対し、リアルタイムで進行する認識(インプット)と、対象への働きかけ(アウトプット)に応じて、知の体系としての諸々のコードをどうその速度に「追いつかせて」介入させていくか、またそれをメタレベルで俯瞰する視点を同時進行させるか、ということだったのです。
私はこれを「直接体験領域(身体が直接接する領域)」と「間接体験領域(メディアなどによってもたらされる情報領域)」に暫定的に境界し、サブセット化した「間接体験領域知性のブロック」を目前の「直接体験領域の現象」へ「リンクさせて行く手際」だけを精錬したら良い、というところまで考えていたのでした。
この場合の「間接体験領域知性のブロック」とは、単に知識の集合を示すのではなく、あたかもフーコーが提示した通りの「考え方のツール化」とその集合、言い換えれば「方法の集合」とでも言うべきものです。
また、この時点で「間接体験領域」の示す「世界像」と、身体的自己の眼前にある局所的ではあるけれど、実体としての「世界」を同一の連続体として取り扱おうとする姿勢そのものがダブルバインド(二重拘束)を引き起こしている、と考えていたので(今でもそう思っています)、すでにここに自己の複層化への萌芽はあった、と言えます。
さて、これは表現を変えると目の前の現象に対して、自身を盲目的に対応させるのではなく、対応させる自己をその場で構築する、「間接体験領域知性のブロック」間のリンクをその場で構築する手法ということです。
私はそれに「セルフ・デザイン」という名を与えたのでした。
が、結果から言えばこれは相当にしんどいことでした。何となれば、この場合自身は「どこにもポジションをおかない」ことになるのです。どこかにあらかじめポジションをおいてしまっていては、現実の速度にリアルタイムに対応することはできません。この視点の恒常化がどれほど根性のいることかと言えば、私は2年と保たずにあっさり放り出してしまったことから推して知れようというものです(笑)。常に「何にも重きを置かない」というのは要するに何にも重心をあずけられないということでして、これは結構つらいものですよ。
もし今その方面へ足をのばそうという方には老婆心ながらご忠告申し上げますが、それは思考の果てには到達しません。身体意識のリライトがその鍵となります、としておきます。
そんなこんなでへたれた私はその点は棚上げして、しばし「間接体験領域知性のブロック」の目録を積み上げることに執心していくわけですが、そうこうする間に世間ではパーソナルコンピュータが鬼火のような侵攻を見せ、世界にはデジタル・ネットワークのもたらした「より端的に複層化した自己でなければ対応できない」世界がオーバーラップしていくことになります。
そこは直接身体の接する共同体の提供する「暗黙の了解(世界像)」という後ろ盾がなく、常にその場で「対応的自己」を構築させ続けないといけない、という場でした。
私は「セルフ・デザイン」のアイデアを、その世界に発生するであろう「私」に託すことにしました。すなわち前項で「セカンド」と名付けた「私」が「セルフ・デザイン」をデジタル・ネットワーク上で継承していくことになったのです。
セルフ・デザイン2
企業のネットが星を被い
電子や光が駆け巡っても、
国家や民族が消えてなくなるほど
情報化されていない近未来
---------------------------------------------士郎正宗 『攻殻機動隊』
われわれが古典的に「自分」にいだいているイメージというのは、何らかの核(中心)があって、そこの周りに周辺状況に対応する柔軟性がある「ひとつ」の球体のようなイメージ、となるのでしょう。
これが中心を持ち、一定の地域を「ひとつの世界」として束ねる近代国家のイメージに対応して出現したものであることは先に指摘しました。だからこのような自我のことを「西洋近代的自我」と言います。
では振り返ってデジタルネットワーク…簡単にインターネットで良いのですが、このインターネットに中心があるのか、というならばそんなものはありません。ウェブ(蜘蛛の巣)とは言いますが、ウェブに蜘蛛の巣のような中心はない。
末端がディレクトリ管理されているとは言ったものの、それは単に現行のマシンを動かすOSがディレクトリ管理で動いていることの反映に過ぎません。原理的にウェブというのはひとつひとつのサイトが対等に超並列的に拡散している、そして対等に関係されている場です。
この様に個々のノード(構成単位)が非ディレクトリ構造でネットワークしている形態を指す言葉が「ハイパー」なんですね。ハイパーはスーパーの上、なんてのはなんだか良く分からない冗談みたいなものでして(笑)、もとの意は「にぎやかな」というようなものですし、ハイパーリンクは「スーパーリンクよりもちょーすごいリンク」、なんて物ではありませんで、いわば「脱中心的なリンク」という意味なのです。
さて、前頁に述べた「仮想的自己の暴走」などに見られるデジタルネットワークに個を投入した際に発生する負の現象は、実にこの自己イメージとネットの全体構造とのギャップに大きな根があるのだと私は考えています。
すなわち、中心あれかしの前提をハイパーワールドという中心のない世界に放り込むことが問題だ、ということです。
個が中心を持ちたいとする欲求とは、すなわちその「中心」が前頁に述べたその中心の有効さを敷衍したいとする欲求と一致します。しかしこれは、相対する「世界像」の方にも「中心」があり、その2軸が常に共同体内の関係性を通して対比される状態においてのみ有効です。
しかし、これがハイパーワールドに投入されると、いとも簡単にこの中心が擬似的な世界の中心と一体化してしまいます。なぜか。ハイパーワールドにおいては「世界の記述」も「今日の夕飯のおかずレシピ」も何ら差のない同一階層に漂う軽重のない一個のノードに過ぎないからです。そこには自己をそのポイントへ拡大することに対する摩擦となる「重さ軽さ」「大きさ小ささ」「権威と価値」などのバイアスがまったくありません。
端的に言いましょう。
ハイパーワールドにおける個のリテラシーとは「中心を欲さない自己像」の確立に他なりません。
ハイパーワールドの中で自己に中心を与えようするならば、自身がネット全体の中心に座るしかない。それが幻想に思えないならば止めはしませんが(笑)、それが馬鹿げた話だと普通に思えるならば、個の方を脱中心化させるより他対応の手だてはないのです。
では、その中心を持たない自己とはどんなイメージなのか。
それはいわば群体のようなものです。要するにネットと同じ構造となるんですが、意図的にその場その場で「対応的自己」を発現させていくところが「自己意識」あってのもの種ですね。
あるいはそのような構造を「リゾーム」とも言います。リゾームとは根が這い絡み合っていくイメージを意味する言葉です。それは網の目の様に絡み合っていき、結節点は持つけれども中心は持たない。
そしてこれがもっとも重要かつしんどいところですが、この構造には「行くべき道しるべ」はないのです。いえ、無い、ということすらない。リゾームに「方向」の概念はありません。というより「予測される未来」はハイパーワールドにはないのです。それらは「今の次の瞬間に次の今が発生する」という自己発生的なイメージでとらえられる瞬間しか持たない。
お分かりでしょうか。前頁において
「あるいは仮想的に指標を代替する装置としてわれわれの生活に根を張ってきたのがデジタルゲームであり、ネットワークであったのです」
と評したその当体は、実のところはそれ(自己像への指標)を与える機能をまったく持っていないものだったのです。ありもしないものを見てしまっていたのは(故にその拡張が無制限になってしまうのですが)、中心への欲望を持ったままハイパーワールドへ自己を投影してしまっていたわれわれの方だったのです。
「セカンド」のリテラシー。それは決して空をつかむような話でもなく、とっかかりの茫漠なものでもありません。少なくとも直近には中心幻想によって起こるギャップという端的な取り組むべき対象があるのです。
ハイパーな、中心を持たない世界。フラグメントが相互に関係し合う、その関係性に耳をそばだたせるべきである世界。
そのような世界に対応すべく発生する、中心を持たない、フラジャイルな「私」。セカンドセルフ。
あるいはリアルの世界のイメージが向かう先が中心を持たないリゾームの間断ない連絡になってゆくのならば、デジタルネットワークに生まれたセカンドセルフがいずれ来るフラジャイルなファーストセルフの先鞭となるのかもしれません。
この頁続く
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